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Shigemi Takajo AudioSystem |
「ガラクタ部屋」のオーディオシステム |
父・髙城重躬の生まれは1912年(明治45年)妹が四人いました。祖父はヴァイオリン、祖母はピアノと両親とも音楽家でした。祖父と祖母は1916年(大正5年)に横浜市日之出町に玉鈴音楽園という音楽教授所を設立しています。大勢の方が習いに来ていたようで、当時としては唯一の演奏会ホールである横浜開港記念会館で玉鈴会大音楽会を毎年1回開催していました。有料にもかかわらず毎回満員だったそうです。このような環境であったため、物心つく頃からピアノやオルガンを弾いていたようです。時期としては大正初期なので、ピアノがある家も少なかったと思います。
家にはピアノのほか、大型ハルモニウム、オルガン、ヴァイオリン、チェロ、バンジョーやハープに至るまで、数多くの楽器がありました。大型のハルモニウムはニコライ堂で使っていたといわれる足踏み式オルガンです。ピアノしかない演奏会ホールにも運び込んで演奏に使っていたことが当時の新聞記事に記載されていました。アメリカ・オルガンは空気を吸い込むタイプのオルガンで、国内にある多くのオルガンはこのタイプになります。これに対して押し出しタイプとなるのがヨーロッパ式のハルモニウムで、パイプオルガンに近い力強い音が出ます。ハルモニウムの奏でる重低音が忘れられず、後の巨大な低音用ホーンを生み出すことになるのです。これらの楽器は戦災ですっかり焼けてなくなってしまいました。
祖父はプロのヴァイオリニストでしたが、神奈川県立横浜第二中学校(現横浜翠嵐高校)の創立以来の音楽教師でもありました。この学校の校歌を作曲しています。生徒には作曲家の高木東六さんがいました。ラジオではなく無線電話といわれていた時代でしたが、日本で初めてのヴァイオリン演奏による音楽放送も行っています。晩年は音楽家として大変苦労したようです。
父は東京高等師範学校で学び、東京音楽学校(現芸大)選科ピアノ科、作曲科にも通って学んでいます。東京音楽学校でスタインウェイに出会い、その素晴らしい音色に感激したそうです。両親から音楽は専業としないで趣味とするのが一番よいと強くすすめられ、その後教師の道を選んでいます。
教師となって初めての赴任先は熊本師範学校でした。熊本で開催された演奏会ではピアニストとしての本領を発揮、当時は珍しかった現代曲、ドビュッシーの「花火」やファリャの「火祭りの踊り」など、圧巻のグリッサンドで大喝采!それ以来「熊本の名ピアニスト」と言われていたとか。東京府立第六高等女学校(現都立三田高校)の赴任先にはスタインウエイのコンサート・グランドピアノ(フルコンサート・グランドピアノ)がありました。あこがれのスタインウェイを弾くことができたので、この時期は本当に楽しく過ごせたようです。開催される音楽会では得意のピアノで生徒達を魅了することもできました。居心地かよくてこの学校に28年間も在職していました。その後都立南高校、都立深沢高校の校長を歴任しています。
1952年(昭和27年)に土地を購入して住まいを新築しています。ステレオも普及していないLP初期のことですが、巨大な低音用ホーンを備えたオールホーンシステム再生装置のある「ガラクタ部屋」のある住まいが完成しました。オールホーンによる再生装置は独自に考案されたシステムで、後にタカジョウ・システムとしてオーディオ界に大きな影響を与えました。この場所で演奏してその場で録音、それがもとの音とおなじ音で再現できること。それこそが真のハイファイ観であるとの信念がありました。1970年(昭和45年)建て替えによって、低音用ホーンは木製から鉄筋コンクリート製になり、さらに進化したタカジョウ・システムによる「ガラクタ部屋」が完成しています。俳優の三橋達也さんをはじめ、多くの有名人がタカジョウ・システムを採用するようになりました。海外でも評判が伝えられ、海外の有名人も「ガラクタ部屋」を訪問しています。
そして、髙城重躬はオーディオ評論家、音楽評論家の草分け的存在になりました。アンプやデッキ類、スピーカーなどオーディオ機器の性能チェックやレコードの評価を雑誌などで論評していましたが、評価は歯に衣着せぬものでした。辛口ですが客観的で公平とも言われていました。組織や団体に一切所属せずアマチュアの立場を貫いた孤高の精神がありました。
雑誌の連載や録音評、著書も多くありましたが、NHK FMやFM東海でレコードの紹介番組に出演していました。当時のFMはこの2局でした。ハイファイ・タイム、ハイファイ・アワー、ハイファイ・クラブをお聴きになったかたもいると思います。
レコード録音評については、音楽演奏者としての視点から楽譜の解釈や演奏方法、楽器の特徴や仕組みなども織り込んだ評論となっていたので、レコードマニアにとっては興味深いものになっていたと思います。 著書の「音の遍歴」(共同通信社)は、私も愛読していたFMfan誌に1971年(昭和46年)一月から二年三ヶ月間にわたって連載されたものを一冊にまとめたもので、その時に思いついたこと気がついたことを書き記したものになっています。「スタインウェイ物語」(ラジオ技術社)は1975年(昭和50年)から二年間「ステレオ芸術」誌に連載していたものです。スタインウェイの大ファンが書いたスタインウェイにまつわる興味深い話が満載です。「オーディオ100バカ」(芸術現代社)は、「音楽現代」誌に連載していたものです。本人にとってオーディオ界はバカげた現象が多すぎると思っていたようで、このようなタイトルで格調高い音楽雑誌に連載してしまいました。機器をよくとりかえるバカ、レコードから原音再生を求めるバカ、価格でスピーカーの優劣を決めるバカ、などなど。オーディオ・マニアであれば、広告や評論家の記事をウノミにしないで、自分のこのみで選び、自分の耳で確かめるべきとの思いがあったのです。その他、「レコード音楽論」(共同通信社)は「サプリーム」誌、「音楽を聴くオーディオ再生」(音楽之友社)は「レコード芸術」誌に連載していたものです。ピアノにご興味のあるかたは「スタインウェイ物語」と共に楽しめる本だと思います。その他「芸術新潮」「ラジオ技術」誌などに長年にわたって録音評、音楽評を連載していました。
髙城重躬の著書
定年後は念願のスタインウエイのコンサート・グランドピアノ(フルコンサート・グランドピアノ)を購入。朝食を終え、ベートーヴェンもコーヒー豆を毎日数えてひいていたといいながら、自分で豆をひきコーヒーをたて、ピアノを弾く。趣味を満喫する毎日でした。毎年のように海外旅行も楽しんでいました。喜寿を記念して自身での演奏と母の声楽を「ガラクタ部屋」で録音してCDを自主製作しています。
晩年は寝室の枕元に小型のスピーカーを置いてCDやFMを聴いて過ごす時間が多くなりました。「ガラクタ部屋」で聴く時間が少なくなり、この時期に録音評やめています。テレビを見ることも多くなり、衛星放送の音楽番組をよく見ていました。1983年(昭和58年)勲四等瑞宝章を受章。1999年(平成11年)8月他界。
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