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Shigemi Takajo
AudioSystem

 
 
「ガラクタ部屋」のオーディオシステム 
 
 

 

原音が再現できる「ガラクタ部屋」

私の過ごした住まいの「ガラクタ部屋」が都内に新築されたのは1952年(昭和27年)。まだ私が生まれる前、ステレオも普及していないLP初期の頃でした。この頃の住宅周辺は駅からも離れていて、農地や竹林が多く残る長閑なところでした。新築した住宅には15畳の「ガラクタ部屋」と呼ばれる再生用の機器を備えた趣味の部屋がありました。すでに中音用朝顔型ラッパ、高音ホーンが左右に並べられ、天井には開口部を持つ巨大な低音用ホーンがひとつ設けられていました。の低音ホーン、当初は木造モルタル製でした。天井の開口は1.8×1.2m、高さは2.5m程度で、2階から1階天井の下に向けて取り付けられる巨大なものでした。この巨大な低音ホーン、父は幼い時に聴いていたというハルモニウムやオルガンの奏でる重低音を何とかして再生したいという思いから生まれたものなのです。

 

この頃、海外のオーディオ製品はものすごいスピードで技術革新が進んでいました。新築して数年後には日本にもステレオ製品が現れました。巨大な低音用ホーンはステレオ用として二つ必要になってしまいました。新築間もない建物でしたが、この流れに遅れをとるわけにはいかないと父は容赦なく天井と2階を壊し、もう一つの低音用ホーンスピーカーを設ける工事をしてしまいました。低音用ホーンスピーカーは木製にモルタルを厚塗りして仕上げたもので、左右二つで500kgありました。

 

スピーカー以外で特筆すべきは手作りのプレーヤーです。今でも通用する糸ドライブ式のターンテーブルをこの時期に考案採用していたことです。世界初のこの試みはプレーヤーで問題になるワウ、フラッターを防ぐ方法として10㎏のターンテーブルを1m離したところに置き、ドライブ用モーターとの間に糸をかけて回す方式です。ワウの原因となるモーターの振動を抑えるため、ターンテーブルとモーターは距離を置いて設置しています。軽いターンテーブルの場合、抵抗の大きい音溝の振幅のところで回転が鈍ってワウが生じてしまうため、ターンテーブルは重くする必要がありました。その後アメリカで現れたベルトドライブ式は、この部屋を訪れて糸ドライブ式のターンテーブルを見たアメリカの技師が参考にして開発したといわれています。ダイレクト・ドライブ式のターンテーブルも現れましたが、糸ドライブ式ターンテーブルを超えるものはありませんでした。

 

このように最新技術のシステムを備えた「ガラクタ部屋」がステレオ普及初期に完成していたのは驚きです。もちろん一人でこれだけのことができるわけがなく、周りの方々に恵まれ、ご協力があったからこそできたものだと思います。

 

ステレオが現れたことによって、日本でもレコードやテープレコーダーの技術が急速に進歩していきます。ステレオテープレコダーが出現し、ステレオでの録音と再生が可能になりました。録音した音源を「ガラクタ部屋」でナマさながらに再現できるようになったのです。

 

身近な音をリアルに再現

私の知っている最も古い録音としては、家族で節分の豆まきをしたときのものです。1957年(昭和32年)頃のものだと思いますが、豆の音や家族の声など当時の様子がナマさながらに再現されていました。テープレコダーが物珍しい時期での録音記録で、当時最新のステレオテープレコーダーによる録音でした。アメリカ製のモノラルテープレコーダーを手に入れたのは1950年(昭和25年)頃で、それ以前はアセテート盤という円盤に音を刻むものによる録音でした。音質は驚くほど改善され、ステレオでの録音も可能になりました。最新のステレオテープレコーダーを使って、様々なナマの音を録音する実験が始まりました。

 

下駄で歩く音をステレオで録音、再現したものはリアルで迫力のあるものでした。周囲が静かになる夜中、ステテコ下着姿の父は下駄を履いてカラコロカラコロ家の前を行ったり来たり、走ったり、転んでみたり、二本のマイクで録音しました。再生した音を部屋で聴くと、下駄の位置がはっきりと捉えられ、どんどん近づいてきて引き戸を開ける音はまるでこの場所に入ってくるかのような迫力あるものでした。ある日、下駄の音を録音していてお巡りさんに職務質問をされてしまったこともありました。

 

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の時も外に録音マイクをセットして暴風雨の音を録音しました。偶然に工事中の建物からものすごい勢いで鉄板が転がり出る音を録音することができました。再生音は台風のものすごい風の音、恐怖に叫ぶ声が録音されていて、ものすごく迫力のあるものでした。

 

火の粉が舞う中での録音 

1966年(昭和41年)一軒おいて隣の自動車修理工場が火事で全焼してしまったことがありました。お隣のお店とアパートも一部が延焼してしまいました。年末の夜でしたが、いきなり近所が騒がしくなり、玄関扉を激しく叩かれ、火事であることが知らされました。外に出ると火の粉が舞い、煙が充満していて近隣は大騒ぎでした。家族総出でバケツに水を汲んで落ちる火の粉に水をかけました。しばらくして家の前の道路は消防車で埋まり、消防士の大声が行き交い大混乱となってしまいました。母はこの家も危ないと避難のための準備をしていましたが、この時、なんと、父は録音マイクを庭にセットしてその時の状況を二時間にわたり録音していたのでした。消防車が延焼を防ぐために家に放水してくれたので延焼は免れましたが、セットしたマイクはびしょ濡れになってしまいました。迫力ある録音がとれたと思いますが、さすがにこの録音を聴こうとは思いませんでした。

 

ナマの音を録音して再生する試みは、すぐに雑誌の連載に話が載っていました。いままでの話もかぶる内容は多いと思います。近隣の火災時のことについては、「火の粉の中の録音」と題して雑誌に書いていました。

 

雷の音や救急車、消防自動車の録音も数多くありました。雷の落ちる音の録音をアメリカの大学の奥さんに聴かせたら、あやうく卒倒しそうになった、隣のおばあさんが本物の雷と間違えて布団をかぶった、消防自動車の録音に驚いて外に飛び出したなどなど、伝説化している話があります。大げさな表現もありましたが、私も知っている本当のことなのです。

   

「髙城重躬の高校教師としての伝説、親しい知人」 

 

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