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Shigemi Takajo
AudioSystem

 
 
「ガラクタ部屋」のオーディオシステム 
 
 

 

高校教師としての伝説

東京高等師範学校を卒業、東京音楽学校(現東京芸大)で学び、数学教師として初めての赴任先は熊本師範でした。あまりに痩せこけていたので医者に行くようすすめられ、寄生虫がいることがわかったそうです。下剤を飲まされ虫がウヨウヨ出てきた、なんて話は聞きたくもありませんが、こんな話が大好きでした。夏休みは東京に戻ってピアノのレッスンを受けるという恵まれた環境でした。

 

赴任後の秋、熊本で開催される演奏会に主催者からピアノ演奏の依頼がありました。これはなんとしても盛り上げようと思ったのか、演奏会ではベートーヴェンの「熱情ソナタ」を荒れ狂うように弾き、すさまじい音楽に聴衆はびっくり仰天!それ以来「熊本の名ピアニスト」と命名されたそうです。その後の演奏会では熊本初演であろうドビュッシーの「花火」やファリャの「火祭りの踊り」などの激しい現代曲を弾いたため、聴衆はさらにびっくりしたのではないでしょうか。

 

次の赴任先は茨城県立堺中学校、その後すぐに東京府立第六高等女学校(現都立三田高校)に赴任。この講堂にスタインウエイのコンサート・グランドピアノがあったので、夢ではないかと思ったそうです。こんなピアノがある女学校など全国どこにもなかったと思います。この学校で開催された音楽会では得意のピアノを披露することができました。大変優秀な生徒さんが多く、一流の声楽家になったかたも何人かいたそうです。スタインウエイがあったおかげで居心地が良く、こちらで28年間も勤めていました。

 

私と同期の友人は父が校長を勤める学校に通っていたため、学校での様子を聞くことができました。びっくりしたのは、道端で拾ったチャルメラを全校生徒が集まる朝礼で吹いて見せたことです。「夏休み前の終業式で何か一つでもよいから習得してみてはどうか。私はチャルメラが吹けるようになりました。」と言ってチャルメラの「チャララ~ララ、チャラ、ララララ~」を吹いて大喝采!だったそうです。

 

数学の先生が授業を休むことになり、代わりに父が授業に来たそうです。しかし講義をするわけでもなく、黒板に黙々と円周率を書き込み、黒板が数字で一杯になったところで「あなた達の年頃に覚えたことは、この年になってもこのように覚えているものです。今のうちしっかり勉強しておきましょう。」といって帰ったそうです。円周率は七、八十桁まで忘れていないといっていました。このように語り継がれる授業?は素晴らしいのかもしれません。

 

本業は高校教師でしたが、かたわらオーディオに興味を持ち、LP初期に「L P技術辞典」(1953年昭和28年鱒書房)を執筆出版しています。さらに、オーディオ装置を自作し、オールホーンスピーカーシステムであるタカジョウ・システムを考案しています。よくも時間があったものだと感心しきりですが、高校教師としても手を抜くことはなく、生徒保護者からは信頼を得ていたようです。

 

証拠がありました。1988年(昭和63年)毎日新聞に公告紙面に載っていたものですが、東京府立第六高等女学校(現都立三田高校)の卒業生によって歴代の教師陣が新聞一面に紹介されていました。その中で髙城重躬先生については「永遠に心に響くピアノの調べ」と題して、昼休みや放課後、校内に流れた美しいピアノの調べは卒業生に共通の思い出としてあることが記されていました。数学の授業ではレベルアップに情熱を燃やし、始業前や放課後に補習を行って進学成績に成果をあげたこと、そのために他校の教師と生徒が毎年のように授業参観に来ていたこともあったようです。卒業生に評価され、印象に残る教師だったことがわかります。

 

髙城重躬の親しい知人

父が親しくしていた友人や身近でお世話になった方々は多かったと思いますが、残念ながらお会いすることも少なく、私はあまりよく存じ上げません。長いお付き合いのなかで、本当にうれしく迎える来客が友人なのだろうと考えると、一番は俳優の三橋達也さんになります。夜遅く突然お見えになることが多かったと思いますが、両親とも嬉しく歓迎する様子を見てきました。三橋さんが名車ムスタング(だったと思いますが)で家の前に止めるのですが、静かなところで車の扉を閉める大きな音と「第三京浜をすっとばしてきました!」とよく通る声が聞こえるので、お見えになったことがすぐわかりました。

 

三橋さんのご自宅もタカジョウ・システムを採用されていて、ご本人は世界で二番目の再生音と言っていたほど満足されていたと聞いています。奥様とご一緒にお見えになったこともありました。三橋さんが所有する船に家族で乗せてもらったこともありました。家族で行く高級料理店はそのほとんどが三橋さんのご紹介によるものだったので、家族ぐるみでお世話になった記憶があります。父が亡くなった葬儀では友人代表として弔辞を読み上げていただきました。

 

父はウィーンのピアニスト、ハンス・カンさんと交友がありました。ピアニストであり作曲家、オーディオにも興味を持ち、ピアノの収集家としても有名な方です。日本では初めてとなる「左手だけの演奏会」を開催したことでも知られています。音楽やオーディオに対する姿勢や考えが父と同じであったようで、ハンス・カンさんと会った時の話を本当にうれしそうに話してくれました。

 

 「ガラクタ部屋」では鍵盤を布で隠してピアノ演奏する特技を披露してくれたそうです。鍵盤を隠していながらショパンの「黒鍵練習曲」、「英雄ポロネーズ」リストの「ラ・カンパネラ」をミスタッチなく弾いてみせたり、指とお尻を交互に使って演奏するなんてことも披露したそうです。夜も更けてくるとピアノ演奏に歌も披露、ありとあらゆる鳴り物を鳴らし父とハンス・カンさんのドンチャン騒ぎ。夜中の1時過ぎまで続いたことを記憶しています。来日した時は必ずお見えになって楽しく過ごしていたと思います。父と母はウィーンに行ったときにハンス・カンさんのご自宅を訪問しています。

 

父の最も尊敬する方で、おそらく最も長くお付き合いさせていただいた知人として洋画家の岡鹿之助さんがいました。岡先生のお宅もタカジョウ・システムが採用されていました。大変親しくしていて、「先生から得たものは計り知れないほど大きい。」と言うほど父にとって大切な方だったと思います。私も父とアトリエに伺ったことがありますが、威厳のある大芸術家の印象が強く残っています。岡先生亡きあとのシステムは弟さんが受け継いで更なる改善が施され、すばらしい音質になったと父も喜んでいました。

 

長野県上田市にある銘菓のⅠ社長は、父が解説した上田市のLPコンサートで控え室に見えたことがご縁で家族ぐるみのお付き合いが始まりました。音楽愛好家でハイファイマニア、ご自宅のオーディオシステムは低音以外をホーンシステムとしたタカジョウ・システムで、常に改良進展し続けていたそうです。父がシステムの設定でご自宅にうかがうのは夏休みの時期でしたので、23日程度の家族旅行も兼ねての訪問になりました。私はまだ小学生だったので、社長ご家族のご案内で昆虫や珍しい石の採集経験ができて本当に楽しい思い出となっています。上田市には23回うかがっているかと思います。

 

私はお会いしたことがありませんが、父が学生であった時の親しい友人として常に名前があがるのは作曲家の江文也(こう・ぶんや)さんです。東京音楽学校(現東京芸大)選科作曲科に入学した際の友人で、台湾出身の江さんは天才的音楽才能の持ち主だったそうです。江さんとは教師となってからも銀座の音楽喫茶で友好を深めたそうです。江さんは数多くの優れた作品を残し、国際的な存在になりました。中国でも高く評価されましたが、江さんが亡くなってからは台湾でも江文也研究が盛んになりました。在日中のことは不明だったため、江文也の友人であった父のところに台湾のテレビ局から大勢のスタッフが取材に見えました。江文也の生涯として3時間番組を作成するためで、6時間に及ぶ大掛かりな取材となりました。

   

 

「再現が難しい虫の音に挑む」 

 

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